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若葉燃ゆ
空気が初夏の匂いを帯び始めた晴れた日のこと。
屋敷の一室から、少年のはきはきとした声が聞こえる。どうやら、書物を音読をしているようだ。たまにつかえると、読みを教える穏やかな老人の声が聞こえてくる。すると、教えられたとおりに少年が再び読み始める。
「うむ。だいぶ読めるようになったな」
「ありがとうございます!」
老人の名は島津日新斎。彼の穏やかな笑みの先にいるのは、声の印象そのままの利発そうな少年。
「読めるようになっても、ちゃんと頭で理解しなければ身に付いているとは言えぬぞ。いざというときに実践できるようにもならなければな」
「はい、おじい様!」
元気に答えるのは、日新斎の嫡孫である又三郎だ。数え年で十歳の彼は、日新斎が教えることを砂が水を吸い込ように覚えていく。優秀な教え子に日新斎の教育にもついつい熱が入ってしまうのだ。
「続きを読んで―――」
「兄上!」
賑やかな足音が聞こえてきたと思ったら、それ以上に元気な声が部屋に響いた。
「兄上!今日こそは川遊びに行きましょう!」
庭先に駆け込んできたのは、又三郎の弟にあたる又四郎だ。兄とは二歳違いだが、体の大きさはあまり変わらない。顔立ちは似ているが、又四郎のほうが活発なそうな印象だ。そのうしろからちょこちょこと走ってきたのは、まだ六つの又六郎。
「又四郎、又六郎、おじい様がいらっしゃるんだぞ」
兄にたしなめられた又四郎は、ようやく祖父がいることに気づいたようだ。慌てて居ずまいをただし、頭を下げる。又六郎も真似てぴょこんと頭を下げた。その様子に日新斎の相好はいよいよ崩れた。
「よいよい、そのように畏まるな。ここにはじじしかおらぬしな」
こちらへ来なさい、と声をかけると、又三郎の弟たちは草履を脱ぎ捨て部屋に上がった。日新斎が又六郎に手招きをすると、彼は嬉しそうに祖父のとなりに腰を下ろした。又四郎は兄のとなりに座ると、書物を覗き込んで眉をしかめた。
「兄上はこんなにも難しいものを読んでおられるのですか」
「お前もいずれ読むことになるのだぞ。難しいとは言っていられないのだ」
「兄上のように読めるとは思えません」
「又四郎は書を読むのが嫌いか」
頬をややふくらませながら言う又四郎に、日新斎は又六郎を膝に抱き上げつつたずねた。又四郎はちょっと考え込むようなそぶりを見せたあと、頬は膨らませたままで答える。
「嫌いではありません。けど、兄上のようにすらすら読めないのです」
「ならば、剣の稽古をするように練習すればよいだろう」
「書を読むより、剣の稽古をしていたほうが楽しいです。それに、兄上が大将 ならば、私は兄上を守るために戦わなければいけません」
だから、書を読む稽古をするよりは剣の稽古をしなければならない。
又四郎は、実に子どもらしい論理でそう答える。
日新斎は目を細めると、よいか、と諭すように言う。祖父のその声音に、又三郎と又四郎の背は自然と伸びる。
「又三郎は大局を見極め、各軍に指令を出さねばならない。しかし、又四郎。 お前が発した伝令がすぐさま又三郎の元に行くと思うか。又三郎の元へ行く前に戦局が変わらないと言えるか」
又四郎ははっとして兄をふり返った。又三郎はそれを見越していたのか、こちらを見て頷くと再び日新斎を見た。又四郎はその様子に更に居ずまいを正して、祖父の言葉の続きを待つ。
「又三郎の元に敵兵を寄せない。それがお主の役目だ。つまり、又四郎は戦場にて兄の目を務めるのだぞ」
「兄上の、目」
「そうだ。又三郎の目をするのだ。その場の動きはすべてお主が見、兄に代わって指示を出さなければならない。あとは、じじの言いたいことはわかるな」
祖父の言葉に、又四郎は力強く頷いた。今まで疎かにしていた書見を、兄と同じようにやらなければならない。兄の目となって、戦場をまとめなければならないのだから。
「又三郎はさらに知識を蓄え、いざというときにうろたえず、冷静な判断をできるようにならなければならないぞ。お主の判断に、島津の命運はかかるのだからな」
「はい!」
又三郎が大きく頷いたところで、日新斎の膝の上でおとなしくしていた又六郎が、おじい様、と声を上げた。
「おじい様。又六郎はどうしたらよいのですか」
「そうだな。お主は兄上たちの手伝いをしなさい。兄上たちの言うことをちゃんと聞いて、理解できるように、やはりお主も書見を怠ってはならぬぞ」
はい、と元気に返事をする又六郎の頭を撫でると、日新斎は彼を抱いたまま、立ち上がった。
「さて、今日の又三郎の書見はこれで終わりにしよう。みんなで川遊びに行こうか」
又三郎と又四郎の顔が輝いた。又四郎はともかく、おとなしい又三郎もまだ子供だ。書見するよりも外で遊ぶほうが楽しいようだ。
日新斎はそんな孫たちの様子を見て微笑むと、草履を履き、庭へ出た。
***
「―――うえ。兄上!」
弟の呼ぶ声に、義久は目を開けた。弟たちが心配そうに覗き込んでいる。
「…寝ていたのか、私は」
呆けたように呟くと、義弘が安心したように笑った。
「兄上は剛毅だな。初陣だというのに、居眠りまでしている」
「父上に見つかったら、大目玉だ」
歳久までそんなことを言う。ふたりの弟たちの憎まれ口に苦笑すると、義久は夢を見ていた、と言った。
「歳久は覚えておらぬかも知れぬが、義弘が書見がいかに大切であるかを思い知ったときのことだ。覚えておるか」
「おお、覚えておりますぞ。思えば、あのときは日新様に生意気な口を叩いたものだ」
夢の中では幼かった弟たちも、今では立派な青年だ。義弘は武略に長け、歳久は兄たちを助けるべく、文武に優れている。義久自慢の弟たちだ。そして、今はまだ幼いが、もうひとり異母弟の又七郎がいる。危なっかしいくらいに兄たちの真似をするので、義母や乳母が困っているという話をよく聞く。しかし、義久としては将来が楽しみな末弟だ。
「ようやくの初陣だ」
ぽつりと呟いた言葉に、義弘と歳久がふり向く。
「兄弟三人で初陣を飾れるのはよいが、こうやって話すのは最期という可能性もある」
弟たちの目を代わる代わる見つめる。しかし、彼らに気負いはない。
「生きて、帰ろうぞ」
義久の静かな、それでいて力強い言葉に、義弘と歳久も、おう、と力強く頷いた。
了
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