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華燭 群雄割拠のこの時代。
大国は小国を呑み込み、小国は小国同士で、自分たちの領土を守るために盟を結んでいる。背後に刃をちらつかせながら。そして、その周辺を、騎馬民族が駆け抜けていく。
近隣の騎馬民族を吸収し、徐々に力をつけてきているのが、西方に広がる泰。しかし、国土の西側には"死の砂漠"と呼ばれる砂漠が広がっている。
泰の都・慶都の中央に位置する王宮の一角に、殷天鳳の邸はある。いつ攻め込まれてもおかしくない戦乱の世において、武勇で名を馳せる弟がいることは、権力を振りかざし、享楽に耽溺する兄王にとってはありがたい存在らしい。慣例であれば、王の弟や嫡子以外の王の子は国境付近の地に封じられ、その防備に就く。それにも関わらず、天鳳はいつまでたっても慶都に留められたままだ。恐らく、歴代の王の子でもこのような扱いを受けた子はいないだろう。
慶都には倦んでいる。しかし、国境警備に従事したいと願い出ても取り下げられるに決まっている。そして、兄王はこちらに叛意があるのではと疑うに違いない。それを思わせるには、まだ時期尚早である。
母をあのような目に遭わせたあの男に、ここまで気を使っている自分が厭わしい。
溜息をついたところで、扉を叩く音がした。返事を待たずに入ってきたのは、天鳳の乳兄弟で、唯一心を許せる楊秀青だ。
「どうしたんだ、そんなつまんなさそうな顔して」
ふたりでいるときの口調は昔と変わらない。母親に咎められようがおかまいなしだ。
「つまらんから、つまらん顔をしている」
「その答えもつまんねえなぁ」
天鳳の前に腰を下ろした秀青は、卓子の上の碗を取り、勝手に茶を入れる。
「で、お前が行くんだって」
「ああ」
先日、隣国の隴から書状が届いた。太子の婚礼があるという。どこかの国の姫を迎え入れるという話も聞かないので、恐らく、国内の有力な家臣から妃を入れるのだろう。その婚礼に、泰の使者として天鳳が出席しろというのだ。
「何でまたお前なんだ?外交担当の爺さんたちにやらせりゃいいのに」
なあ、と同意を求める秀青だが、彼もわかっているはずだ。今回の件は、使者としてだけでなく、次の戦への布石も兼ねているということを。その証拠に、秀青の目に面白がるような光が浮かんでいる。
隴は、古からの都・華陽を擁する国・華と泰を隔てる国のうちで最も手強い国だ。国土は湖のもたらす恵みにより肥沃であり、それを守ろうとする民の乱世への意識も強い。現在の国王は内政に力を入れているようだが、若い頃は武で鳴らしたそうだ。先王の時代、隴の北東にあった小国・鄭を併呑してからは、周囲の国に対してあからさまな侵略行為には出ていない。しかし、国境付近での小さな戦闘では確実に勝ちを収め、結果的にそれが周辺諸国に対する示威となっている。泰も何度か破られている。
泰が中央に進出するにあたり、最も北で国境を接している薛に関しては、何の問題もない。兄王が密かに手の者を入れ、内側から切り崩しているらしい。南東部に位置する蔡・巴の二国は泰を恐れており、こちらの機嫌を伺うような行動ばかりとっている。滅ぼそうと思えば、今すぐにでも滅ぼすことは出来るだろう。そうすると、泰が最も恐れるべき国はやはり隴ということになる。
来るべき戦に備え、先陣を任せられるであろう天鳳がこの役目を負うのは当然といえば当然だ。
「―――まあ、いいさ。遊山の気分で行くことにする」
「俺も連れて行けよ」
当たり前だ、と天鳳は笑った。
***
今日この日が来ても、やはり実感が湧かない。霍史恭は自分が騙されているのではないかと首を捻った。この話を聞かされてから、もう数え切れないほど首を傾げている。
確かに、隴の太子である凌桀は自分を兄と慕い、よく王宮を抜け出しては邸まで遊びに来ていた。しかし、散々憎まれ口を叩きあっていた妹の霍琳をまさか妃として迎えたいと言い出すとは。
王からその話を聞かされたとき、何かの冗談かと思った。しかし、王と脇に侍る太子の顔は実に晴やかで、誠実なものさえ窺えた。これは本気だと思い、慌てて帰宅し、琳に話したところ、彼女は真っ赤になって俯き、蚊の泣くような声で、喜んでお受けいたします、と言ったものだった。―――男女の機微というものはよくわからない。
その日から今日までは一体何をしていたのか、自分でもよく覚えていない。ただ、王より、妹のために得意とする瑟を奏でよ、と命じられたことだけは覚えている。
朝議に参列すれば、臣たちに厭味とも取られる祝賀の言葉を貰い、練兵場へ行っては兵士たちの鍛錬をし、邸へ帰れば婚儀の準備にと忙しい。両親がすでに亡い霍兄妹にとって、ふたりの乳母である王夫人は誠にありがたい存在だった。婚儀の準備のほとんどを取り仕切っていたのは、王夫人といっても過言ではない。
目の回るような忙しさの数ヶ月の間を経て今日に至るわけだが、よく倒れなかったものだと妙に感心してしまう。
しかし、琳が太子に手を引かれ、国王夫妻に礼をしたとき、最早妹とは呼べなくなったのだな、と一抹の寂しさを感じたのは事実だ。彼女は今日から霍妃として人生を歩まなければならない。
あの跳ねっ返りに堪えられるのか、と小さく笑ったところで、史恭の出番を告げる声が聞こえてきた。
「続きまして、将軍霍史恭殿による瑟の演奏」
朗々と響く声に導かれるように、史恭は広間へ出た。ほう、と広間のあちこちから溜息が洩れる。
上座には国王夫妻が、それより一段下がったところに若い太子夫妻が幸せな笑みを浮かべて座っている。その表情を見ると、二人とも心より慕う史恭の演奏を楽しみにしていたようだ。
史恭は一礼すると、座り、瑟を置く。ぴんと張る弦の上に爪を置いた瞬間、史恭には太子と霍妃以外は見えなくなった。国王夫妻すらもその意識には入っていない。
史恭はただ、この二人のためだけに瑟を奏でる。
「欲しいな」
「は?」
小さく呟いた天鳳の声に、背後に控えていた秀青が顔を近づけた。
めずらしく、ゆったりとした笑みを浮かべて見つめるその先には、太子妃の兄であり、隴の若き将軍霍史恭。彼には泰も何度か苦汁を舐めさせられていたが、まさか、このような美丈夫とは思ってもいなかった。瑟を手に広間に出て来たときは、神仙でも降りてきたのかと思ったくらいだ。そして、彼が瑟を奏で始めると、広間に居並ぶ人々は皆、彼の演奏に引き込まれた。秀青も例外ではない。自らも音曲を嗜み、それなりの腕だと自負している分、霍史恭の奏でる音の素晴らしさには脱帽するばかりだ。
「欲しいとは、霍史恭を、ですか」
咳ひとつ聞こえぬ中、いよいよ声をひそめて天鳳に問うと、彼はゆっくりと頷いた。
「あれほどの名手は、大陸全土を探してもいないだろう」
「御意」
「ここに来てから聞こえてくるのは、霍兄妹の仲睦まじさと美貌、その才、彼らへの羨望と妬心、そして、霍史恭の文武の才だ。妹が手に入らぬところにいるのならば、兄の才を欲しがるのは当然であろう」
そういうと、天鳳はくつくつと笑う。その表情に、秀青は内心苦笑する。天鳳はどうやら悪巧みをしているらしい。こういうときの天鳳は、何が何でも手に入れようとする。たとえ、時間がかかってもだ。
「霍史恭のために軍を出すのも、悪くはないな。―――俺の宿願のためにも、霍史恭を引き込んでも損はあるまい」
「―――御意」
広間に嫋嫋と響く瑟の音に隠れて囁かれるのは、今幸せの絶頂を迎えている隴を滅ぼさんとする、大国の小さな小さな謀。
ちりり、と何かを感じた。―――見られている。
灼けつくような、熱い視線。
それは目の前の二人から発せられるものではない。
力強くて傲慢なくせに、ちらりとのぞかせる繊細な視線。その一風変わった視線は、こちらに気を向かせようとする。
誰だ。
史恭は視線を動かすことはせず、意識だけで捉えようとする。しかし、それは捉えたと思った瞬間、するりと逃げる。
瑟を奏でる意識とは全く違う次元で史恭は考える。
隴において、このような複雑な視線を向けてくる輩はまずいない。とすれば、国外からの来賓だ。薛・蔡・巴の三国は文官が来ており、到底このような視線を送れるような人物とは思えない。考えられるのは、泰・丹・寧・華のいずれかの国のもの。この呼吸はかなりの戦巧者と見た。
曲が佳境を迎える。史恭の奏でる音はいよいよその輝きを増していく。向けられる視線のことも忘れ、最後の音を鳴らそうとした瞬間だった。
「―――!」
存在を忘れていた視線が、猛烈な勢いで絡み付いてきた。いや、むしろ、その視線の主に激しく抱かれるような強い視線。激しい熱。
最後の音が響いた。
しかし、それは史恭の意図していたものとは全く違う音だった。
艶麗な、どこか淫らにすら聞こえる音。
一瞬の静寂のあと、広間は割れんばかりの拍手で溢れ返った。
最後の音の乱れにはほとんどのものが気づかなかったようだ。しかし、霍妃は気づいたようで、驚いたようにこちらを見つめている。
史恭は一礼すると、心配するかのように見つめてくる琳を安心させるように微笑んでみせた。安堵したのか、琳も笑い返してくる。
あの視線の主は、と礼をするかたわら、客人を見回す。すると、ひとりだけ、会心の笑みをうっすらと浮かべている男が目に入った。
泰国王弟・殷天鳳。その武勇が大陸全土に轟いている男だ。
視線の主はこの男か。なるほど。視線どおりの印象の男だ。しかし、付きまとう暗い影は何だ。
天鳳がこちらをじっと見つめてくる。こちらを絡めとろうとするかのような視線。しかし、この男から発せられているものだと思えば、全く不快ではない。それが不思議だ。
にこり、と笑ってみせると、天鳳はやや驚いたように目を見開き、やがて周囲と同じように破顔し、手を叩いた。
周囲と同化してしまった男に、興味はない。
史恭はもう一度、国王夫妻と太子夫妻に向けて一礼すると、広間より去った。
「見たか、秀青
「ええ。殿下の視線を真っ向から受け止めた上に、笑みまで向けるとはなかなかの胆力ですな」
「俺の視線からは皆逃げるというのにな」
笑いながら言うと、天鳳は酒を一息で飲み干した。
「―――いよいよ、欲しくなってきた」
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泰が、中央への足掛かりとして隴に攻め入るのは、いま少し先のこと。
しかし、その侵攻のきっかけが、ひとりの隴の将軍であるということは、後世の歴史書には書かれていない。
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